「速読」では決して得られないもの-本という友との出会い-

「本をたくさん読むと頭が良くなる」「成功するためには〇百冊の本を読まなければならない」などという言葉にあおられて、「競争社会で人に勝つには、たくさんの本を読んで教養を身につけ、多くの知識や情報を持つことが大切だ」と思っている人が、ずいぶんと多いような気がします。だからこそ、なるべく速く、時間を無駄にせずにたくさんの本を読む方法、いわゆる「速読法」に、皆、飛びつくのでしょう。

もちろん、より多くの教養、知識、情報を持っている方が有利な職種もあるでしょう。しかし、それはあくまでも、「仕事のために有益である」だけで、人生を生きるために有益かとうかは、別の話です。
大量の本を読んで、あなたは「歩く辞書」になりたいのでしょうか?
周囲に「知的な人」という印象を与えたいのでしょうか?
どんな分野の議論にも、勝つ自信を手に入れたいのでしょうか?
それとも、読んだ本の数は、あなたを格上げしてくれるのでしょうか?


心から愛することのできる本を、じっくりと読んでこそ、読書は読む人の人格を磨いてくれると、私は思います。

読書は、人から強要されたり、自分で自分に強要して、するものではありません。

心が飢え渇き、孤独な人が友人を求めるように良い本を探し求める時、あなたは、まさに友人に出会うように、愛する本に出会います。
書店で、図書館で、またはインターネットを通して。

10年前、私はそんなふうに、すてきな一冊を求めて、書店を訪れました。その時に、たまたま手に取ったのが、上橋菜穂子著『狐笛のかなた』という童話でした。

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「りょうりょうと風が吹き渡る夕暮れの野を……」


最初のこの一行を読んだ時、私は何かとてつもなく大きな力が、胸を内側からぐっと広げ、そこに風景が立ち上がり、ひんやりとした風が吹き込んでくるのを感じました。これが、作家上橋菜穂子さんの作品との出会いでした。


あれから10年。私は上橋さんが書かれた物語を、すべて読みました。一言一言、一文一文、噛みしめ、味わうように読みました。空腹の人が、不平不満など一つも言わずに、感謝と喜びをもって、目の前に準備された料理を味わうように、評価や判定をする気持ちなど、一切無く、私は物語に身をゆだね、物語の世界を旅しました。

今では、読んだすべての物語が、私の魂に刻み込まれています。

私は思うのです。本は、ただ受動的に、人に読まれるために生まれて来るものではないと。読む人と会話を交わし、心を通わせ、一緒に貴重な経験を重ねてゆくために、生まれるのだと。だから、「速読」は、本を悲しませるような気がするのです。実用書でも、小説でも、同じです。

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