もうピアノは弾かないと決めた日-早期教育とうつ病

私は4才からピアノを習いました。先天性弱視だったので、両親は何か一つ、目が悪くても出来ることを身につけておいた方がいい、と思ったのでしょう。9才までヤマハ音楽教室に通い、その後は個人の先生からレッスンを受けました。初めから、音楽大学のピアノ科受験を視野に入れた、厳しい教育を受けました。7才からソルフェージュも習いました。

小学生のころは「おおきくなったら何になりたい?」ときかれると、深く考えることもなく、「ヤマハのピアノの先生」と答えていました。でも、正直、音楽大学へ進むことは考えられませんでした。

中学高校時代、私は学校のオーケストラでクラリネットを吹いていました。私が音楽の楽しさを知ったのは、オーケストラを通してでした。15才の時、音楽療法という職業を知り、音楽療法士になると決意しました。音楽療法の勉強をするために、総合大学の音楽学科へ進学しました。入学試験の実技は選択制でしたので、ピアノで受験しました。

大学卒業間際に、私は、今後一切ピアノを弾かない、と心に決めました。

卒業後、ライアーという、今でも動画で演奏している小さなハープに転向し、シュタイナー音楽療法を学ぶためにドイツへ留学しました。

子ども時代の私にとって、ピアノは生活の一部でした。「嫌いになる」とか「やめる」という選択肢は考えたことすらありませんでした。教育熱心だった母は、毎日一時間、私のピアノの練習を監視しました。ハノン、ツェルニー、ソナチネ、バッハの二声のインヴェンション、と順におさらいをしました。

母は私のピアノを看ることができるよう、自分自身もピアノを習いました。私のレッスンには必ず付き添い、先生が指摘したことを、すべて楽譜に書き込みました。
日々の練習は、多くの場合、母と私の闘いとなりました。少なくとも、私の記憶には、そのように残っています。しばしば、私は途中で弾くのをやめて、部屋に閉じこもり、ドアを閉めました。母が私に代わってピアノの前に座り、ブルグミュラーの練習をしている音を聞きながら、悔しさに歯を食いしばり、声をころして泣きました。

発表会に出ると、私は必ずたくさん間違いました。誤って1オクターヴ下を弾いてしまったこともありました。発表会の演奏を録音したカセットテープを聞きながら、家で反省会が行われました。私は、「とんでもないあがり症で、それは非常に恥ずかしいことである」という判定を受けました。

実際に、私は本番が苦手でした。しかし、それには理由がありました。今だからこそ説明できる理由です。私は弱視です。ピアノの鍵盤はぼんやりとしか、見えていません。しかし、目をつぶって弾けるか、と言われると、弾けません。これが弱視ならではの、人に理解されにくい部分です。

ピアノは、ヴァイオリンやリコーダーのように指の感覚だけを頼りに音を探す楽器と違い、実は、非常に目を使う楽器なのです。しかも、行く先々で、弾くピアノはいつも変わります。特に発表会で弾くステージの上は、普段とまったく違う照明の当たり方をしています。
この状況で「いつも通りの演奏」をしようとするならば、ほとんど音が跳ぶことのない、非常にゆっくりな曲を選ぶしかないでしょう。

悲しいかな、このように、弱視者がピアノを弾く難しさと、ハンディキャップの大きさについて分析し、説明ができるようになったのは、つい最近のことです。もし、今この記事を読んでいる方の中に、弱視のお子さんをお持ちの親御さんがいらして、お子さんにピアノを習わせようと考えていらっしゃるなら、どうか、この部分を理解してあげてください。見え方は一人一人違いますので、それほど問題の無いケースもあるかも知れません。

自分が緊張して本番で失敗をしてしまうのは、どうもピアノだけだということに気づいたのは、中学校でクラリネットやリコーダーを吹くようになった時でした。あがり症どころか、私は教会の礼拝の奏楽でリコーダーを吹くのが大好きでした。ピアノ以外の楽器を演奏することは、私にとってとても大きな喜びでした。

ピアノの本番であがる癖は、大学時代に、さらにひどくなりました。入学試験は音の跳ばない曲を選んだのでうまくいきましたが、学期末試験の度に、ものすごい精神的ストレスに晒されました。より確実に演奏できるようにするために、一日7時間も8時間も練習しました。試験の直前になると、頭痛と腹痛に襲われました。それでも、行って、試験を受けました。

膨大な練習量のおかげで、ピアノの試験は毎回、良い成績だったようです。そのせいで、学科の定期演奏会のソリストとして選ばれたこともありました。この時は教授に懇願して下ろさせてもらいました。私の代わりに演奏できた同級生は喜び、私は彼女に感謝しました。

卒業演奏を前に、教授と口論をしました。この学科は、ピアノのレッスンも選択制だったので、試験を辞退しても、単位が一つ取れなくなるだけで、形式的には問題ないはずでした。当時、精神的に非常に追い詰められていた私は、死ぬような思いでした。教授は私の状況を理解しませんでした。それは怠惰であり、我がままだと決めつけました。結局、私は折れました。ボロボロの心と、怒りの渦の中で卒業演奏を(周りから見ると見事に)やり遂げ、やり場のない悔しさを、「もう一生、ピアノには触らない」という決意にこめて、大学を卒業しました。


若い頃、私はエネルギーに満ち、体も健康でした。
ところが、20代後半になると、ゆるぎないものだと信じていた健康が、ガタガタと崩れてゆきました。何度検査をしても、特に内臓に異常があるわけでもなく、結局、うつ病とパニック障害の診断を受けました。

ドイツでは2年間、心理療法を受けました。帰国後に抗うつ剤投与を開始しました。
いくら原因を探っても、はっきりと分からないまま、体力がどんどん低下してゆきました。出張で新幹線を使った移動が困難になり、週に5日可能だった出勤が3日になり、1日になり、月に1回がやっとになりました。日常生活もできなくなり、長期間入院することが増えました。

これが、私の30代でした。
治ることを諦め、回復することも諦め、この体力でもやってゆける生活環境を整え始めたころ、ほんの少しずつ、病は回復してゆきました。体力は、いまだに戻りません。

もし、ピアノを習わなかったら、私の人生は違っていただろうか……
でもやはり、私が持っている、唯一、売りものにできる技術は、音楽です。
4才の時にピアノを始めていなかったら、今持っている技術は、育まれなかったかも知れません。音楽の早期教育を受けられたことは、とても幸運なことだったと思っています。両親にも感謝しています。

最近、ピアノのための作曲を始めました。皆さんに、「弾けない」と悩むことなく、苦しむことなく、ピアノを弾いてほしい。そんな願いから生まれたアイデアです。ピアノで苦しみ抜いた私が、皆さんに贈りたいものは、頑張らなくても、我慢しなくても、歯を食いしばって練習しなくても、音楽の喜びに浸ることはできるような、易しい、小さな、そして美しい曲たちです。

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