音楽療法士になる=生徒の立場を卒業する-そのために必要なのは…

ドイツの音楽療法士養成校では、先生を「先生」と呼ぶことはありませんでした。それもそのはず、ドイツ社会では、小学生までの子どもたちのみ、先生をHerr/Frau○○、英語でいうミスターやミスを付けて呼び、先生は生徒をDu(君)と呼びます。しかし、この上下関係は子どもが15才になる頃、終わります。それ以降は、先生も生徒にミスターやミスを付けて呼びますから、お互いが対等な関係になります。日本や韓国以外に、「先生」という呼び方がある言語がどれくらい存在するか、分かりませんが、欧米社会はだいたい、ドイツと似たような感じではないでしょうか。

音楽療法の学校は大人のための学校ですから、もちろん、先生生徒は互いにミスター○○で呼び合い、卒業すると互いにDu(君)と呼び合いました。卒業して「同僚」になった証拠です。

14年前に帰国した時、一番戸惑ったことが、日本では大人同士でも先生生徒という上下関係が存在し、しかも、それが卒業した後も、永続的に続くことでした。このこと自体は、習慣のちがいですからよいとして、問題はこの習慣がもたらす精神面への影響です。

単刀直入に言うと、「生徒」の立場の大人たちが、いつまで経っても自立できないのです。

「これは正しいか、間違っているか」何でも先生にきかなければ実行できない。音楽療法の「マニュアル」を欲しがる。自分で感じたこと、考えたことに自信が持てないので、自ら新しことを試す勇気が出ない。そして、一番大きな問題は、卒業間近になっても、この姿勢がなかなか変化しないことでした。

しかし、音楽療法の場で求められるものは、まさにこれと正反対のこと。つまり、サービスを提供する立場でも、先生の立場でもなく、対等な人間として、真摯にクライアントと向き合うこと。習ったことやマニュアルではなく、クライアントがその瞬間、その場で必要としていることを感じ取り、それを最優先することです。

綿密にセッションを計画して音楽療法に臨んでも、クライアントのその日の状態によって、計画したこと、準備したことをすべて捨てる勇気が必要です。代わりに、自分が持っている能力とアイデアと楽器と音楽と……、その場の条件を駆使して、クライアントが必要としている音楽療法を、即興で作り上げる力がなくてはなりません。

帰国して、日本の音楽療法士養成校で講師として働き始めた当初から、私は自分を先生と呼ぶことを、かたくなに拒否し続けました。生徒のほとんどが、私より年上の人たちだったこともあり、私はいつでもどこでも「さくらさん」でいることができました。でも、中には、どうしても私のことを「先生」と呼んでしまい、とうとう、「一回呼んだら1000円」と、私がお金をかけ、数万円を積んだ生徒さんもいました。もちろん、冗談ですよ!

ちなみにその方は、すばらしい音楽療法士となられ、音楽療法を採り入れたことのない病院でも、医師と患者の前でライアー(音楽療法用の小さなハープ)を演奏し、実際に患者のバイタルが安定することを示し、病室での演奏許可を得るなど、大きな貢献をされています。

他の職業もおなじだと思いますが、音楽療法士は、自分の足でしっかりと立たなくてはなりません。そうでなければ、クライアントと心を通わせることも、時にはクライアントが安心して力を解放できるような、強い受け手となることもできません。


「生徒」の立場から卒業できないもう一つの原因として、自分自身の音楽性に対する自信のなさがあるのではないかと、ある時、気づきました。
音楽性は「ある」とか「ない」とか、「誰々の方が高い」とか「低い」とか、そういうふうに判定できるものでは、まったくありません。


音楽性とは、自分が弾いた音や、うたった音、演奏、伴奏、作曲、編曲などを、「音楽的に正しいと根拠づけるための技能や知識」です。
私が、ソルフェージュを習うことのできる良い音楽教室を探して、このサイトで紹介しようとしているのは、音楽療法士を志す人たちに、音楽性、つまり自分の音楽に対する自信をつけてほしいと願うからです。楽譜を見て頭の中で音が響きますか? ある曲を聴いて楽譜を想像できますか?

この力は、小さい頃から音楽を習っていなくても、大人になってからでも、必ず身につけることができると、私は信じています。外国語を習得するのと同じだと。
そして、何よりも、音楽性は自信につながります。「生徒」であることを卒業する自信です。


10月初めに、椿音楽教室のソルフェージュの先生に会いに行って来ます。

大人の初心者のソルフェージュについて、お話を伺って来ようと思います。
「これをきいて来てほしい」という質問がありましたら、コメントください。メッセージでも構いません。できるかぎり、伺って来ます!

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