意外と理解されていないキリスト教のお話を、数回にわたってしてゆこうと思います。
キリスト教の神、主は、私たちひとりひとりを心の底から愛しておられます。
私たちが神さまを信じ、愛するようになるよりずっと前からです。聖書の中で一番大切な教えは何でしょう。神の子であるイエス・キリストはこう言っています。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の提である。(マタイによる福音書22章37節)
主が喜ばれることは、善い行いをすることでも、一生懸命に努力することでも、精神的に成長することでもないのです。
ただ神と、神であられるイエス・キリストを愛すること。それだけです。
よく誤解されるのですが、一番一生懸命にお祈りをし、聖書の勉強をし、休まずに教会に通い、神さまのために働く人が、一番神さまから愛されるわけではありません。神の目に、順位というものはありません。
誰が誰より愛されている。そういうことは、まったくの嘘です。
神も前で、私たちはみんな、比べることの出来ないくらい、尊い存在です。
私たちは神の子どもですから、お互いに兄弟姉妹ですけれども、父である主に祈る時、主とともにいる時、どんな時でも、そこに存在するのは神であられる主、またはイエスさまと私の二人だけです。
私たちの人生は、主との恋愛小説です。
そこに、第三者は登場しません。
両想いの二人の恋愛小説。実は、聖書自体がそれ以外の何物でもありません。
「アンナの小さな神さま」という本の中で、5才のアンナは鎖の輪と輪のつながりを見つめながら、こう言います。
「これが、神さまと私の関係なの。つまり私の真ん中を神さまが通っていて、神さまの真ん中を私が通っている。」
なんとうまい表現でしょう!
私たちが神さまを知らない間は、ずっと神さまの片思いが続きます。ですから、私たちがどんなに悪いことをして、どんなに情けない姿で神のもとへ現れたとしても、主は感激して、私たちを抱きしめてくれます。
パウロという使徒がいます。イエス・キリストによる救いのことを人々に伝えるために一生をささげたひとです。旅に旅を重ね、方々に教会を築き上げ、キリスト教に反対する者たちから迫害を受け、長い年月を牢獄の中で過ごし、牢獄から方々の教会へ、励ましの手紙を書き送った人です。その手紙はすべて、聖書の中に収められており、2000年が経った今でも、私たちに多くの大切なことを教えてくれます。
神に選ばれ、マムシが嚙みついても傷一つ負わないほどの力を得た人。彼が口を開けば多くの民がキリストを信じた人。
でも実は、パウロは最初、キリスト教徒を迫害する者だったのです。教会を荒らし、人々を殺すようなことを繰り返していました。
そんなある日、パウロにイエス・キリストが語りかけました。「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか」と。
私はキリスト教徒を迫害こそしませんが、お祈りをサボったり、聖書を読むことを面倒くさいと思ったり、教会へ行かなかったり、イエスさまのことを忘れて過ごすことも多い人間です。それでも、心から叫んで、イエスさまを呼び続ける時、主イエスは必ず私の隣に来て座り、はっきりと、その存在を私に感じさせてくださいます。私の心が神さまから遠く離れてしまっている時には、30分以上、主の名を呼び続けなくてはならないこともあります。それでも、必ず来て、私と心を通わせてくださいます。私の問いに、悩みに、迷いに、怒りに、答えてくださいます。アンナが言ったように、イエスさまの存在が、私の真ん中を通っていることを感じて、私は安心します。ものすごくおおきな力を得ます。自分が生活をしている日常が、遥か遠く、山々の向こうにかすんで見えます。
「私はあそこで生きているけれど、本当は、山の上のこの場所にいるのだ」と、気づきます。
天国は私たちの中にある、というのは、まさにこういうことなのでしょう。
やがて、あの街の日常の中での生活が終わったら、私はこの山の上に帰って来るのだろう……
そんなことを思うのです。
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