続 私とキリスト教の信仰-勧誘と伝道のちがい

これは慎重に扱わなければならないテーマですが、私がとても大切に思っていることなので、書きます。

私を知っている方々はご存知かと思いますが、私は相手が興味を持って尋ねない限り、人に聖書の話をしたり、教会に誘ったりしません。現代の人々は日々、何かしらの宣伝や勧誘に晒されています。儲けや、ノルマを達成する目的のために、こちらの意志とは関係なく浴びせられる情報から身を守る習慣が身についています。もし、よく知らない人からいきなり教会へ誘われたり、聖書の話をされたら、クリスチャンの私でさえ、「カルトかなにかではないか?」と疑ってしまいます。そういう時代です。

そんなことを言いつつ、このサイトにも広告を貼っているではないか、と言われそうですが、私は相当慎重に、広告を選んでいます。自分が購入し、気に入って使っているものや、よく知っていてお勧めできるもの以外、宣伝していません。

「勧誘」は誰にでもできますが、「伝道」は、自分自身がキリスト教の神を心から信じ、神さまとの関係を築いてきた人、いくつもの困難を神とともに乗り越え、それを通して神がどういう方であられるか、知っている人にしかできません。

そういう人はたいがい、謙虚です。相手の自由を尊重します。相手に教えようとするのではなく、相手から学ぼうとします。情熱をもっていますが、眼差しは冷静で、理にかなった考え方をします。そういう牧師や伝道師、信者の仲間たちを、私は何人か、見てきました。彼らが初めて教会に来た人に接する姿は、感動的ですらありました。

私が友人を教会へ連れて行った時、ある伝道師は友人のために祈る前に、「この方はクリスチャンですか?」と、私に確認しました。原因不明の病と闘っている友人に会った時、牧師はまず、友人に医学的にどういう診断を受けたのか尋ねました。相手の立場に立って考え、語りかける、謙虚で優しく、一方でひとかけらの迷いもない毅然とした姿を見て、私はイエスさまを見ているような気持になりました。

※ キリスト教では父である神、人間となってこの世に生まれ、十字架にかけられて死んで復活した神の子、イエス・キリスト、キリストが天国に帰った後、人間に贈られた神の力(霊)、聖霊(せいれい)が、三つの姿をとっているが、一つの神であるという意味で「三位一体(さんみいったい)」と言います。

信仰をもって生きてゆく時、人は神さまに似た性格になってゆきます。
決して相手を否定しない。ものごとを決めつけない。差別しない。
そういう性質をもった人間は、人を惹きつけます。「なぜこの人はこんなに強く、確信をもって生きていて、優しく、思慮深いのだろう」と、人々は関心を持ちます。その人がキリスト教徒であることを知った時、人々は、キリスト教とは何かを理解します。
これが、自らの生きる姿によって行う真の「伝道」です。


歴史的に、キリスト教徒は多くの過ちを犯してきました。世界中で行われた「宣教」によって、救われた人々もいるでしょう。しかし、一方で宣教が植民地支配の一つの手段として使用されたのも事実です。歴史は、いかなる歴史であっても、決して忘れてはならないと私は思っています。

る伝道師さんに、「社会問題を起こすような新興宗教は別として、イスラム教や仏教など、他の宗教を認めないのは、良くないことだと思う」と話してみたことがあります。実は、同じ話をクリスチャンサークルでして、まったく理解を得られなった苦い経験がありました。しかし、その伝道師の答えは愛のあるものでした。それはまさに、私がしたいと思う、「伝道」のしかたでした。

「あなたがキリストを信じるならば、他の宗教の教えを認める必要はないでしょう。でも、社会生活の中で、他の宗教の人たちのことも尊重するのは当然のこと。イスラム教徒とでも、仏教徒とでも、友だちになればいいでしょう。その人たちの生き方から学べることはたくさんある。イスラム教の人は、一日に何度もお祈りをするのよ。私たちは彼らのようにちゃんとお祈りをしているかしら? 
良い友だちになって、彼らがあなたの信じているものに関心を寄せてきたならば、『私が信じているキリスト教について話してもいい?』と尋ねてみればいい。聞きたいと言ったら、伝道をすればいいでしょう。」


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