宣伝は心をこめたプレゼントにしたい ‐「知ってもらうこと」がその充分なお返し

私は広告が好きではありません。基本的に、「勧誘されること」が嫌いなのです。私は、幼い頃からプロテスタントの教会に通ったクリスチャンです。本当ならば、神に祈り、神と語り合い、神と私、二人の関係を作ってゆくことが一番大事なのに、教会の大人たちの中には、「こうしなさい」「ああしなさい」と言って他人に説教ばかりする人がいました。そして、そういう説教に「はい、はい」と言って従う大人たちがいました。私はまだ子供でしたが、「どうして大人たちは、自分で考えたり、神さまと話したりせずに、偉い人の言うことばかり聞くのだろう」と疑問に思っていました。

自分の頭で考えずに、人から言われたことにただ従うような大人にはなりたくない、いつも私はそう思っていました。それと同じように、本人の意に反して何かをおしつけたり、指示したりするような大人にも、絶対になりたくないと思いました。

私は自分の頭で考えて、心で感じて、ものごとを決める。
何を買うか、何を買わないか。何を勉強して、何を勉強しないか。
困ったときに誰に助けてもらうか。どこまでは、自分の力でやるか。
相手にも、同じようにしてほしい。

今まで、私が一番大切にしてきたのは、このことでした。
二つの言葉に要約するなら、「自由」と「責任」です。

そんな私にとって「宣伝」は、人間の自主的思考を妨げる悪いものでしかありませんでした。しかし、いざ自分が「売る側」になった時、自分が作った商品を宣伝しなくては、誰にも知ってもらえないという現実に直面しました。

さて、どうしよう…… まずは思いつく限りのさまざまな方法で広告を作り、宣伝をしてみました。やっているうちに分ってきたことがあります。それは、宣伝の目的を「多くの人に自分の商品を買ってもらって儲けること」に設定すると、宣伝は私にとって苦行以外のなにものでもなくなるということ。逆に、「宣伝は見返りを必要としない、不特定多数の人たちへのプレゼントだ」と考えると、広告を作ることが大きな喜びになりました。「私や私の作品を知ってもらう」こと自体が、プレゼントのお返しですから、報酬は必要ないのです。

知った後に、私の商品を買うかどうか、私の活動を支援するかどうか決めるのは、お客さん自身の頭と心です。私はまちがっても、宣伝によって意図的にお客さんの欲望を掻き立てたり、不安感を煽ったりしたくありません。そんなことをしなくても、誠実な心をこめたプレゼントを届け続けていれば、時間はかかっても、必ず私に目をとめて、満面の笑顔で近づいて来てくれる人たちがいることを、私は信じていようと思います。

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