友の涙-お金に対する正常な感覚を失わないこと

かれこれ20年以上お付き合いしている良き友人がいます。友人というよりも、もはやきょうだいのように仲良くしています。その友人から、一生忘れることがないであろう素敵なプレゼントをもらいました。

コロナ渦で職を失ってから、彼は経済的にとても厳しい状況に立たされました。家賃の問題。生活費の工面。そんな彼が、住んでいた賃貸物件の事情で引っ越しをしなくてはならなくなりました。月々払える家賃は限られています。その範囲内で何とか少しでも条件の良い物件を探していましたが、難しく、疲れ果てていました。その憂うつな状況を嘆いた長いメールに、私は答えました。
「ルームシェアしない? 私はここを引っ越さないけど、年に何回かそっちに行った時、住まわせてよ。家賃半分払うから、ちょっとはまともな物件選んでよ。」


私も決して金持ちではありません。どちらかというと、低所得者の部類に入ります。でも、幸いなことに、生活には困っていません。贅沢は出来ないけれど。
今まで、何度か窮地に立たされた友人を援助したことがあります。長い年月知っている、信頼のできる友人たちです。ただし、その経験から、「助けることが相手にとって良くない場合もある」ということを、私は学びました。物理的な援助であっても、精神的な援助であっても、「助ける」ということは、相手の力をそぎ取ってしまう危険性を持っています。でも、今回の相手は、むしろいつも私を支え、助けてくれる頼もしい友人でした。


その人は、人からお金をもらうくらいなら死んだ方がましだ、と思い込んでいる人間です。人が良すぎて、働いた分の代価すら受け取らないため、損をするのです。そして、自尊心というものがまるでない人。そんな人だから、私の提案に怒るかも知れないな、と予想していました。ところが、かかってきた電話口で、声をつまらせて泣くではありませんか。初めて見る友人の涙に、私はびっくりしました。

「嬉しくて、有難くて、心がすごく温かくなった。慰められた。元気が出た。こんなバカな俺を信じて、そんな提案をしてくれて。」と言うのです。
「信じるって、今さら。あんたをどんだけ長いこと知っていると思ってるの?」
結局、友人は予想通り、私の申し出を丁寧に断りました。「今は確かに厳しい状況にある。でも、その提案は受け取れない」と。


でも、友人が隠そうともせずに見せてくれた涙は、きらきら輝く宝石となって、私の心に残りました。

現代は、お金に対する正常な感覚を、簡単に失ってしまいかねない時代です。「あなたも年収○千万円になれる」「○○をして1億円稼いだふつうのサラリーマン」「働かずに月々○十万円稼ぐ方法」…… こういう宣伝文句に飛びついて、インターネットビジネスを始める人たち、その商法を売る人たちが大勢います。

〇百万円なんて大したお金ではないと感じる人々がいます。いや、〇千万円くらい大したことないと考える人々、それ以上の人々すら、たくさんいるでしょう。
私は決してお金を嫌っているわけでも、稼ぐことに反対なわけでもありません。健康なお金の循環があってこそ、価値あるものが価値あるものとして生きるということも知っています。


その一方で、私は、数万円の家賃援助の申し出に感動して泣いた、友人の涙をずっと忘れずにいたいと思います。自分自身も含めて、多くの人にとっては、生活してゆくことが精一杯で、いくら努力しても、そこから抜け出すことはなかなか難しいという現実を。
これから、私は少しずつ自分のビジネスを開拓してゆこうと思っています。その道で、社会の底辺を支えるこの大勢の人々の目線、感覚、基準を常に大切にしてゆきたいと考えています。

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