キリスト教でいう「病が癒される」ってどういうこと?-視覚障害者のつぶやき

インターネットを通して、障害とともに生きる人たちが自分のことを紹介したり、発言するようになって、障害というものが、少しずつ認知される社会になってきている。
それなのに、悩みを抱えた人たちのよりどころとなるはずの教会で、障害者に対する認識が、すごく時代遅れだと感じる。どうしてなのだろう。


聖書の中でイエスキリストは、
「この人の目が見えないのはなぜか? 家族の罪のせいか? 先祖の罪のせいか?」
と質問された時、
「家族や先祖のせいではなくて、神の業がこの人に表れるためである」と答えている。
その後に、キリストはこの人の目を癒して見えるようにしたから、

みんな「神の業」は、その「癒し」の奇跡のことだと思い込んでいる。

でも、本当にそうなのかな。
私はちがうと思う。


子どもが健康で生まれて来ることも、障害を持って生まれて来ることも、
どちらも奇跡だと私は思う。


一生健康で過ごすことも、病気になることも、
病気が治ることも、治らないことも、
どれも、同じく尊い神の恵みだと、私は思う。


障害を持って生きる人生は、障害を持たずに生きる人生より、不幸なの?
病気一つ知らないことは、たくさんの病を抱えて生きることより、幸せなの?


障害を持って生まれると、生きるために、
他の人よりたくさんの壁を乗り越えなくてはならない。
壁をひとつ乗り越えるたびに、人は強くなる。
その壁を乗り越えるには、たくさんの人たちの助けが要る。
お医者さん、リハビリの先生、それぞれの障害の専門家である支援学級の先生たち。
たくさんの人たちから愛を注がれて、育つ。


努力と、みんなから注がれた愛によって、
その子どもは心優しい大人になる。
人の痛みが分かる大人に。
これこそが、「神の業」だと私は思っている。


教会で、「病や障害が癒される奇跡」の話ばかり聞いていると、
何だか、病気とか障害が悪いものみたいに思えてくる。
癒されるべき忌まわしいものみたいに。
だから、私は奇跡の話が嫌いだ。
信じていないわけではない。
神さまには何でもできる。
病気をひとつ癒すことなんて、簡単なことにちがいない。


「あなたの病が癒されますように」
と祈ってもらってうれしい人もいるかも知れない。
でも、正直私は、あまりうれしくない。
だって、私の目の障害も、うつ病という持病も、神さまがくださった
大切な贈り物なのだから。


それよりも、「関心」の方がずっとうれしい。
「どんなふうに見えているの?」
「どんなことは簡単に出来て、どんなことが難しいの?」
「就職しようとすると、そういう障害ってハンディになるの?」
「いじめられたりしたことある?」
どんなことでも、遠慮なくきいてもらうことが、私は好き。
だって、私に「障害者」というレッテルを貼って、敬遠している人は、
こういうことをしてくれないから。


関心は、愛。
決めつけは、相手を傷つける刃。



コメント

  1. 吉武 恭子 より:

    どうやって見えているの?
    な〜んだ、遠慮なく聞いて良かったのですね。初めてお会いした時、とても知りたかった事。すんなりティッシュを取りに行く不思議、室内では杖を持たずに普通に歩いていらっしゃる不思議。幼い頃から、そういう質問はしてはいけない、と洗脳されていたのかも。
    決めつけは刃物にもなるのですね。
    うん、分かる気がします。そう、決めつけられると良い気持ちはしません。
    世間でよく聞き見かける 身障者の表示、昔からあまり好きではなく、だから何?
    皆んな同じじゃん。と思う事がよくあり。
    ただ、凸凹のパズルをはめるみたいに、お互いに補い合い助け合う世の中になればいいのにな、という漠然とした思いは子供の頃からずーっとあった。

    • 恭子さん♡ ほんと、ある意味ではみんな何かしらの弱点を持って生きているわけで、それがたまたま外側から見えるか見えないかの違いですよね。逆に、
      表に見えない、いわゆる精神障害とか、障害とは呼べないけれど人より敏感とか、そういう人には分かりにくい、説明しても分かってもらえないハンディの方が、
      孤独だったり、大変だったりしますよね。ほんと、みんなが得意なことを活かして、弱い部分は助け合っていけたらいいですよね。

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