弱い人の力になれるのは弱さを知っている人

告白すると、どこかで分かれ道があったような気がするのです。
「うつ病になったのは偶然の不幸」とは言い切れない自分がいます。
健康で生きるか、病と生きるか。
人生の分岐点に立った時、病を選んだバカ正直でクソ真面目な音楽療法士の自分がいたような気がするのです。
そいつが呟いた言葉を覚えています。

「人を治療するだなんておこがましいことをぬかすな。」
「クライアントに寄り添うだって? 同じ立場で同じ苦しみを噛み締めたこともないくせに何を言う。」
「先生と呼ばれていい気になってる井の中の蛙にだけはなるもんか。」

病を背負って歩む者として、病の中にある人の友となり、力になりたい。私はそう思いました。

その時、目に浮かんでいたのは、寒くて臭くて汚い馬小屋で生まれ、十字架に釘打たれて死んだイエスキリストの生々しい生き様でした。捕まる前の夜、弟子たち一人一人の足を洗って拭ったキリストの姿。

襲ってくる病を上手に避けて通る道が、なくはなかったのかも知れません。ちょっとズルくなれば、神さまではなく、自分中心の選択をすれば、そっちへ行けたのかも知れない……

でも、私にはそれが出来なかった。もしそちらへ行ったら、私が私ではなくなってしまうような気がしたのです。

負け惜しみ? 自己正当化? 言い訳?

そうかも知れない……
そうかも知れないけれど、
本当はただ、車輪の下に引きずり込まれてしまった弱っちい奴なだけなのかも知れないけれど……

でも今、私はこの道を選んで良かったと心から思っています。今歩いている道が「私の道」だと、100パーセント言うことが出来る。結んでいる実が一見小粒でも、その一つ一つを私は誇りに思っています。

さまよったことはあります。
でも、自分自身に嘘をついたことは一度もありません。
自分に嘘をつくことは、私が一番愛するイエスさまに嘘をつくことだからです。

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