「勝ち組」って本当にいるの?-弱さの深淵でつかむ本当の強さ

「勝ち組」「負け組」。こんな言葉、いったい誰が作ったのだろう。まるで、人生はこの二つのどちらかしかないとでも言うように。こういう言葉を作った人は、自分が「負け組」だと思っていたにちがいない。きっと、人生に不満を感じていた人だ。いや、「不満」なんて生易しいものではなく、怒りや悔しさや、むなしさや悲しみ、絶望を感じていた人かも知れない。

人間にとって、少しも利益をもたらさない言葉というものがある。
「勝ち組」「負け組」もその一つだ。他にも山ほどある。「弱者・強者」「エリートコース」「レールに乗る・乗り遅れる」「娘が片付く」などなど。こういう言葉には共通点がある。
それは、人を追い詰めることだ。
まるで、人生には成功モデルがあって、そこから外れてはいけない、とでも言うかのように。


もう一つ、こういう言葉の背景には固定観念がある。
成功モデルを手に入れるかどうかは、自分次第である、という固定観念だ。


人生には成功モデルなどない。
そして、あなたが今、置かれている状況は、あなたが作り出したものではない。
人間は皆それぞれ、ちがった性質と、才能を持って生まれてくる。その性質と才能に優劣などない。


絶対的な幸せも、絶対的な不幸も、存在しない。
幸せそうに見えようが、不幸に見えようが、それは「見る人」が思い描く幻想にすぎない。

仲の良さそうな男女に見えても、家に帰れば男が女に暴力をふるい、女は男に嫌がらせをする。そういうことだってある。よく知り合ってみなければ、相手のことを知ることなどできない。


は一生の間に、必ず、みじめさを味わう。
幼少期から家庭内で苦労する子どももいれば、学校でいじめられる子どももいる。心身ともに健康で、人付き合いも上手く、勉強もよく出来て、一流の大学へ進み、一流の企業に就職し、結婚をして家庭を築き、エリートコースを歩いた、いわゆる「勝ち組」の人が、ある日突然、心を病むことがある。重い病に倒れることもある。


病気一つしたことのない人が、人生の真ん中で、突然、何もできなくなる。それがどんなことか、想像してみてほしい。昨日まで持っていた社会的地位も、肩書も、いつも浴びていた尊敬と羨望の眼差しも、すべてが一瞬にして消える。後に残されたのは、人に助けてもらわなければ身の回りのことすらできない自分だ。

子どもの頃からずっと、弱さやみじめさと一緒に生きてきた人ならば、乗り越えてゆける試練が、今まで強さしか知らなかった人にとっては、絶望の淵となる。
しかし、もうこれ以上何も失うものがないほどに、弱く、みじめになった時、人は一番、神に近い。
心の奥深くから湧きあがってくる温かさと、なぐさめ。どんな大恋愛にも代えがたい愛おしさと、どんな権威にも代えがたい強さは、私たちが一番弱い時に、心を満たす。


私はクリスチャンだけれども、キリスト教を布教しようとか、勧誘しようとは思っていない。
ただ、ここに書いたことは、私がこれまで、幾度も幾度も、体験してきたことだ。
自分自身が経験したことだから、話したかった。

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