身体の苦痛は想像以上に心をむしばむ-原因不明の痛みと闘っている人と周りの人たちへ

継続的な痛みやしんどさ、眩暈や息苦しさ等の不快感は、それが続く歳月の長さに比例して、人の心をむしばみ、破壊し、人格さえも変えてしまうことがあります。特に、その痛みや苦しみの原因がつきとめられない、したがって、治療法が見つからない場合、そして症状が徐々に悪化してゆく場合、当人は、痛みや苦しみに耐えるだけでなく、今後への不安と、将来への絶望感にも耐えなくてはなりません。これは、人間の精神力のキャパシティーを超える苦痛です。

自分がそのような状況に陥ったことを想像してみれば、以上のことは容易に想像できるでしょう。しかしながら、「想像する」のと「実際に経験する」のとは、やはり違います。実際に経験することによってのみ、その絶望的な苦痛は骨に刻み込まれます。その記憶は、症状が癒えた後も、体感を伴って、永遠に残ります。

私は、20代後半から40才を迎えるころまで、十数年間、うつ病を患いました。現在、抗うつ薬を服用し始めてちょうど10年になりますが、服用量はいまだに中程度から減らすことが出来ないままです。しかし、体のしんどさは、かなり改善しました。私の場合は当初から、精神的症状よりも、身体的症状が酷くて、365日24時間、常に息苦しさと倦怠感、車酔いのような気持ち悪さがありました。内科、耳鼻科、婦人科、神経科など、代替療法も含め、ありとあらゆる検査を受け、思いつく限りの治療を試しましたが、原因不明。症状はまったく改善しませんでした。

「常に苦しい」という状態は、7,8年続きました。最初の頃はまだ、気力と、治ることへの期待で乗り切っていましたが、4年5年と症状が悪化してゆくうちに、「もう治らないかも知れない」「一生、苦しいのかも知れない」「もう以前のような元気な自分には戻れないのだ」という不安と絶望感に襲われるようになりました。絶望感は時が経つにつれて強まり、自他ともに認める「抑うつ状態」となりました。死にたい気持ちに押しつぶされそうな時期が、何度もやって来ました。数年間にわたり、入退院を繰り返しました。

ここで強調しておきたいのは、「うつ病のせいで身体的苦痛が起こったのではなく、身体的苦痛が長期間、継続した結果、精神的限界に達した」というところです。結局、「以前のように元気な体は取り戻せない」という予想は、現実でした。でも、身体的苦しさが少しずつ取れてゆくにつれて、その現実も、受け入れられるようになりました。今は、「まぁ、いいか」と思っています。

なぜ、こんな話を書いているかと言うと、改善の見通しが立たない長期間にわたる身体的苦痛が、どれほど本人を精神的に追い詰めているか、経験した者として、一度書き残しておきたいのです。そのような人を、私自身もふくめて誰も、うっかり、それ以上追い詰めることのないように。

どんな時、私たちは本人を「追い詰める」のでしょうか?
それは、ああしたらいい、こうしたらいいという、アドヴァイスが、軽率に投げかけられる時です。
もちろん、本人が関心を持ったことは支持したいですし、明らかに有益だと思える情報は提供したいですよね。ここで言う軽率なアドヴァイスとは、考え方や価値観を変えた方がいい、という類のものや、特定の心理学的、スピリチュアル的な捉え方を「教授」する行為を指します。


こうしたアドヴァイスはどれも、当人の精神的苦痛を和らげません。精神的苦痛から当人を解放する唯一の方法は、原因となっている身体的な痛み、苦しみが取り除かれることです。

私も、症状が酷かった頃、「あなたのものの捉え方や考え方が間違っているから体の症状が消えないのだ。まずはそれを直すべきだ」というようなことを言われた経験があります。簡単に言うと「あなたは自分で自分を苦しめている」という意見です。当時はその意見を真面目に受け止め、悩みましたが、今になって考えると、相手は「病は気から」だと思い込んでいたのでしょう。実際には「病が気をむしばむ」のです。

「本人の性格や考え方、生き方が病気の原因となった」という捉え方をする治療家たちがいます。例えば、「気にし過ぎる性格のせいでうつ病になった」、「その痛みは何かのメッセージである」など。しかし、このような捉え方は生産的でないと、正直、私は思います。「全人間的」、つまり心身の両側面から患者を理解しようとするならば、まず目を向けるべきは、「身体的苦痛が患者の精神に与えているストレス」であって、「身体的病気の原因となった患者の精神的側面」ではないと思います。いかがですか?

ならば、痛みや苦しみを抱えて、精神的限界にきている人に、私たちが出来ることは何でしょうか。
その時点での当人の言動や行動を、当人の実際の人格とは切り離して捉えることだと、私は思います。「今、苦痛のせいでこの人はおかしくなってしまっている」と考えることが出来れば、当人の性格をジャッジしたり、批判したり、説教したりすることもないでしょう。


の症状さえ無かったら、この人はこんなことを言ったり考えたりする人ではない、という信頼を手放すことなく、尊敬と愛情をもって接することが、本人にとって、何にも代えがたい救いです。多少の愚痴やわがままが許されることで、「自分は理解されている」と感じるものです。もちろん、家族のように毎日一緒に過ごす人にとっては、これは簡単なことではありませんから、また別の対処法が必要です。でも、「友だち」という立場で出来ることは、まさにこれだと、私は経験上、断言できます。

最後に、今、身体的な苦痛の中にある人へ。
想いを寄せるだけで、胸が痛く、泣きたい気持ちになります。
「なぜ治らないの!?」と、一緒に叫びたい気持ちです。
慰めの言葉なんて言えません。でも、必ず、時とともに、すべてが変わってゆくこと、これだけは確かです。今のままの身体的、精神的な苦痛が一生、変わらないことは絶対にありません。
今、どん底の限界にいるなら、それ以上、落ちてゆくことはありません。

将来は、誰にとっても、想像とは異なります。
「時間」には魔法の力があります。

数年後のあなたは、今と同じ場所に立ってはいません。
必ず、今よりも多くのことを理解しており、
今よりも多くのことを確信しており、
それによって、今よりも自由に、今よりもらくに、生きているはずです。
だから、今日は今日の苦痛をやり過ごすだけで充分です。それ以上のことは、何もする必要が無い。
ただ今日という時間を通り過ぎてください。

それだけで、偉業です!

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