台風が来る度に、私は悶え苦しむ。どんな治療も効かない自律神経失調症だ。天候や気圧、湿度の微妙な変化にさえ、私の体は敏感に反応する。だから、台風が発生して通り過ぎるまでの間、突発的に、起き上がれないほどの倦怠感や息苦しさが襲ってくる。それは、本気で恐ろしくなるほどの苦痛で、高熱があるのではないかと検温をしてみても、平熱。外を歩いていると、急に体が浮くような感覚に捕らわれ、意識が遠のいて倒れそうになるのを必死で堪える。
湿気さえ無ければ、私は元気に生活できるのではないか。湿度の低い地域へ移住することを、ずっと本気で夢見ていた。
でも、それが解決策ではないということが、ようやく解り始めた。
これは、主によって与えられた試練であり、私が背負うべき、私の十字架だと。
厳しい試練には理由がある。
試練が与えられるということは、神さまが私の願いを、夢を、本気で聞いてくださっている証拠だ。その夢を実現するために必要な、ゆるぎない確信と忍耐力を養うために必要な訓練が試練だ。だから、困難はいつも、私が乗り越えられるぎりぎりの大きさでやってくる。
試練に勝利した時、つまり困難のただ中にあっても、必ず主に守られ、癒されることを信じ、不安に陥ることなく、苦痛から逃れようと奔走することなく、希望をしっかりと胸に抱き、守られている安心感を噛みしめ、心満たされて過ごすことができた時、人の精神はゆらぐことのない確かさを得る。濁流が押し寄せても流されることのない、地に深く根を張った大樹のように。
人を愛する力、慈しみと憐みによって人の心を癒す力は、こうして養われるのだと思う。
自分が幸せになることが人生の目的ならば、きっと試練は必要ない。でも、自分が幸せになることでは、どうしても充たされることのない魂の渇望を持って、人間は生まれてくるのだと私は思う。その渇望から目を逸らすことなく生きる人は、自分の力ではとてもできない働きをする。神さまといっしょに成し遂げる働き。
そういう業を行う時、人はとても言葉で言い表すことの出来ない幸せを噛みしめる。深い泉から湧き出てやまないようなその大きな喜びを一度知ってしまった者は、もう他の夢を見ることができない。厳しい試練さえもいとわぬほどに、魂は主とともに歩むことを渇望するようになる。
「天国で報われるために地上で耐え忍ぶ」というイメージが、なぜかキリスト教に対してよく抱かれる。でも、少なくとも私は、天国に行ってからのことにはあまり興味が無い。天の国の喜びは、この地上でも、いやこの地上でこそ、充分に味わうことができるものだから。
コメント