私は楽譜を見ながらピアノが弾けないの-視覚障害とピアノ

私は先天性弱視です。ピアノを弾いていたころは、メガネのフレームに望遠鏡を取り付けた「弱視メガネ」をかけて楽譜を読み、片手ずつ暗譜してから弾きました。曲が簡単なうちはすぐに覚えられましたが、難しくなってくると、一日に一小節ずつ覚えて、つなげてゆきました。私は左目しか見えず、弱視メガネをかけて楽譜を見ていると、同時に鍵盤を見ることはできないのです。だから、暗譜して弾くしかありませんでした。

他のみんなは、弾く曲が難しくなるにつれて、初見演奏(楽譜を見ながら演奏すること)も上手になってゆきました。初めて見る楽譜をすらすらと弾く友だちが、とてもうらやましかったのを覚えています。教会では、ピアノを習っている子どもたちは、中学生くらいになると、礼拝の奏楽(讃美歌の伴奏など)を担当します。同学年や年下の女の子たちが、教会のオルガンを弾いている姿を見るたびに、私は悔しさと切なさを噛みしめました。私には決してできないことだったからです。

教会だけではなく、学校でも「合唱の伴奏ができる人」はきまって重宝がられました。初見演奏ができなければ、ピアノが弾けることにはならないんだ……と、私は思っていました。余計な期待をされないように、教会でも学校でも、自分がピアノを習っていることは、誰にも言いませんでした。楽譜を見てもすぐに弾けない私を見つめる、みんなのがっかりした顔は想像したくもありませんでした。

大学時代、副科の声楽のレッスンや試験の伴奏は、学生同士でお互いに担当し合いました。私とペアを組んでくれた友だちは、私の下手な伴奏に一度も文句を言うことなく、それどころか、いつも大満足してくれました。自分の試験ならともかく、人の試験の伴奏ですから、責任があります。一生懸命に暗譜しました。

ピアノの課題曲だったショパンのエチュードを暗譜するのは、気が遠くなるような作業でした。一小節暗譜するのに、何時間もかかりました。それでも、人間の記憶力というものは不思議です。最初に楽譜を見た時には、とても暗譜なんてできないと思うものですが、一日一小節ずつ、根気強く覚えてゆくと、数週間後には一曲まるごと頭に入り、弾けるようになるのです。脳に記憶するというより、体が覚える、または指が覚える、という感覚に近いと思います。今はとてもとてもできません。10代20代前半の若い時期だったからこそ、できたことです。

「目が悪くても、その分、きっと耳は良いのでしょう? 音楽に向いているはずよ。」
こういう単純な考えから、視覚障害を持つ我が子に、音楽の道をすすめる親は多いと思います。でも、そんなにあまくはないのです。初見演奏ができなければ、ピアノで曲を覚えるスピードが遅くなります。一日中練習していられる学生時代はまだしも、ピアノを職業にするというのは、とても難しいことです。音楽の先生になって合唱の伴奏をするのにも、結婚式場でBGMの生演奏をするにも、初見演奏は必修です。

例え、ピアノ以外の楽器を選んだとして、将来、プロの演奏家としてオーケストラに所属するにも、小編成のアンサンブルを組むにも、素早く楽譜を読み、同時に指揮者や他の演奏者の合図を読み取る必要があります。演奏家というものは、非常に目を使う職業なのです。

ただし、クラシック音楽にこだわらず、ジャズピアノを習っていたなら、または、チェンバロのように、数字だけの楽譜から、即興で和音を作り出す技術を磨いていれば、視覚障害者の私にもできることの幅が、少しは広がったかも知れないと、今になって、ふと思う時があります。

いずれにせよ、視覚障害に限らず、何らかのハンディを持ちつつ、他の人と同じことをやり遂げようとするならば、ふつうの人の2倍、3倍、時には10倍の努力と忍耐が必要であることは、事実です。時々、私が持っている「成し遂げる力」を羨ましがる人がいます。私は、複雑な気持ちになります。

この力は、決して生まれ持ったものではないからです。努力するしかなくて、努力してきた結果、ついた力だからです。

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