人生はあなたの手の中にはない、もっと大きな存在に抱かれている-東京五輪の開幕式をひとり寂しく見ていたあなたへ-

日のオリンピック開幕式を家でひとりで見ていて、ふと寂しくなった人、けっこういるのではないでしょうか。クリスマスやお正月をひとりで過ごす時に感じる寂しさと同じものを噛みしめた人。寂しさは辛いものですから、脳は解決策を求めてあれこれ考え始めます。「なぜ、自分はひとりなのだろうか」「どうして幸せな家庭に恵まれないのだろうか」「結婚したいのに、なぜ良い人に出会わないのだろうか」などなど。
「あの時、ちがう道を選んでいたら……」「早く良いパートナーと出会って結婚したい」
後悔や焦りの気持ちが湧いてきて、心に吹き荒れるかも知れません。

「今の状況は自分で招いたものだ」「あなた次第で幸せは手に入れられる」
こんな言葉をよく耳にします。でも、私はそう思いません。

今、あなたが置かれた状況を作ったのは、あなたではありません。
将来も、あなたの手で思い通りに作れるものではありません。

あなたは今までの人生の中で、いつも、その時に最善と思われる選択をしてきたはずです。それ以上のことが、どうして出来たでしょうか。
これから先も、あなたは、その瞬間瞬間に、最善と思われる選択をしてゆくでしょう。
それ以上のことが、どうして出来るでしょうか。

今、ひとりぼっちなのも、家族の問題に押しつぶされそうになっているのも、良きパートナーがいるのもいないのも、子どもがいるのもいないのも、何一つ、あなたの責任ではありません。いろんな事情があって、望んだかどうかにかかわらず、あなたは今、その状況に置かれているのです。そして、これからやって来る未来も、あなたの計画通り、望み通りではないでしょう。

一方で、こんなふうに考える人もいます。
今、私が噛みしめている幸せ、たとえば、明日どこへ行って何をしてもいいという自由や、大好きな友だちと、誰にも気兼ねすることなく過ごす時間、すきな時に食べたい物を食べられる幸せ、やりたい仕事に思いきり力を注ぐことができる嬉しさ、こういう宝ものに比べたら、一瞬よぎる寂しさなんて、へっちゃらだ、と。


または、こんなふうに。
私には優しい夫と、愛する子どもたちがいる。今、自分のために使える時間はほとんどないし、やりたいことをする力なんて残っていない。でも、子どもたちは何ものにも代えがたい宝もの。だから、子どもが育つまでの間、自分の自由を犠牲にすることなんて、へっちゃらだ、と。

やって来る未来がどんなものであっても、
物足りなさを感じる人は、焦り、後悔するでしょう。
喜びを感じる人は、幸せにひたるでしょう。


私はクリスチャンですが、決して人にキリスト教を布教したり押しつけたりするつもりはありません。私が聖書や神について語るのは、それが私の考え方、生き方の一部になっているからです。

「いつも喜んでいなさい」
聖書には、こんな言葉が出て来ます。
最善を尽くす以上のことは、あなたには出来ない。だから、ベストを尽くしたなら、あとは神の手にゆだねなさいと、聖書は教えます。人間に分かっていることも、人間が出来ることも、神が知っていることに比べたら、浜辺の砂の一粒にしか過ぎないのです。


あなたのことも、神は、あなた自身よりずっとよく知っています。
常に、あなたが一番喜ぶ道を、あなたが一番輝く道を、敷いてくれています。
ただし、「喜び」という感情を感じるか、感じないかは、人間にかかっています。
私たち人間の選択なのです。いつも喜んでいる人は、幸せを見つけるのがとても上手です。いつも不満で、焦っている人は、どんなに幸せな状況でも、喜びを感じることが出来ません。感じることが出来なければ、「幸せ」なんて、あってもなくても、同じでしょう。


今、うれしいことはなんですか。
今、楽しいことはなんですか。
今、幸せなことはどんなことですか

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